大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

釧路地方裁判所 平成9年(わ)184号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は、次のとおりである。

「被告人は、平成九年六月ころ、先に協議離婚したAと再び同棲を開始するに際し、当時自己が親権者となっていた、元夫Bとの間にもうけた長男C及び次男D(当時三歳)を連れて右Aと内縁関係に入ったものであるが、その後、右Aが右Dらにせっかんを繰り返すようになったのであるから、その親権者兼監護者として右Dらに対する右Aのせっかんを制止して右Dらを保護すべき立場にあったものであるところ、右Aが、平成九年一一月二〇日午後七時一五分ころ、北海道釧路市《番地略》甲野マンション一号室において、右Dに対し、同児の顔面、頭部を平手及び手拳で多数回にわたり殴打し、転倒させるなどの暴行を加え、よって、同児に硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害を負わせ、翌二一日午前一時五五分ころ、同市春湖台一番一二号市立釧路総合病院において、同児を右傷害に伴う脳機能障害により死亡させた犯行を行った際、同月二〇日午後七時一五分ころ、右甲野マンション一号室において、右Aが前記暴行を開始しようとしたのを認識したのであるから、直ちに同暴行を制止する措置を採るべきであり、かつ、これを制止して容易に右Dを保護することができたのに、その措置を採ることなくことさら放置し、もって右Aの前記犯行を容易ならしめてこれを幇助したものである。」

二  被告人に傷害致死幇助罪が成立するか否かを判断する前提として、まず、本件の事実経過についてみてみることとする。

関係証拠によれば、次のような事実が認められる。

1  被告人とAが知り合った経緯等

(一)  被告人は、平成四年八月二七日、Bと婚姻し、二人の間には、平成五年三月二七日、長男Cが、平成六年五月二八日、二男Dがそれぞれ生まれた。しかし、その後、被告人は、Bと不仲となり、平成七年九月、C及びDを連れて別居した。そして、同年一二月一八日、Bと協議離婚し、C及びDの親権者となった。

(二)  被告人は、釧路市内のスナックで働いていた平成八年三月ころ、客として来店したAと親しくなった。そして、同月二二日ころから、Aの当時住んでいた釧路市昭和北三丁目のアパート(以下「昭和北のアパート」という。)で、C及びDを連れてAと同棲するようになり、勤めていたスナックも辞めた。なお、Aは、平成五年七月二〇日、E子と婚姻し、二人の間には二人の子が生まれたけれども、平成七年九月一三日、協議離婚していた。

2  昭和北のアパートでの生活状況及び被告人がAと婚姻した経緯等

(一)  被告人は、平成八年四月中旬ころ、CとDを連れて女友達の家に遊びに出掛け、その帰りが遅くなったことなどから、Aと口論になった。その際、Aは、被告人が反抗的な態度をとったことに激昂し、マイナスドライバーを被告人の首筋に当て、赤い跡が残るほど力を込めて押し付け、脅し付けるなどした。その後、被告人は、Aに面と向かって刃向かうことをしなくなった。

(二)  被告人は、右(一)の暴行の数か月後、Aの暴力に追い詰められて、かみそりで手首を切って自殺しようとした。それに気付いたAは、かみそりを取り上げ、手拳や平手で被告人の顔面や肩を殴打するなどした。その際、被告人は、何ら抵抗することなくAの暴行を受け入れ、ひたすら殴られるままになっていた。

(三)  被告人は、昭和北のアパートに居住していた当時、右(一)、(二)のほかにもAから暴行を受けたことが度々あった。そして、暴行を受けた数日後に実母宅に逃げ、しばらくすると、Aから、戻るように優しく言われ、子供を可愛がり、暴力は振るわないなどと約束されて、再びよりを戻すということを、三、四回繰り返していた。なお、被告人は、Aに見付かって暴行を加えられるのを恐れ、常にAの留守のときを見計らって逃げていた。

(四)  被告人は、平成八年六月ころ、Aの子を妊娠したことを知り、同年七月二日、Aと婚姻した。また、Aは、同年一〇月三日、C及びDと養子縁組をした。なお、平成九年一月二二日、被告人とAとの間に、長女F子が生まれた。

(五)  Aは、昭和北のアパートに居住していた当時、CやDが食事の行儀が悪いときなどに、しつけ程度に子供達のほおを平手で殴打していたほか、立たせたり、正座させたりしていた。

(六)  Aは、被告人と同棲を始めたころ、とび職人として働いていたものの、平成八年八月ころ、これを辞め、同年一〇月ころ、短期間土木作業に従事したものの、再び辞め、同年一一月下旬から一二月末までは配送業に就き、平成九年一月終わりころから同年五月ころまで港湾作業員として働くなど職を転々としており、全く仕事をしないときもあった。

3  被告人がAと協議離婚した経緯及び釧路市星が浦大通のアパート(以下「星が浦のアパート」という。)での生活状況等

(一)  被告人は、平成九年二月ころ、またもやAに暴力を振るわれたことから、Aの留守のときを見計らい、三人の子供を連れて実母宅に逃げた。その後、見かねた実母からAと離婚するよう強く言われたこともあって離婚を決意し、Aも離婚に応じたことから、同年三月六日、C及びDの親権者を被告人と定めて協議離婚した。しかし、その数日後、Aから、「俺には、お前しかいない。仕事もちゃんとするし、子供も可愛がる。暴力は振るわないから、もう一度やり直そう。」などと優しく言われてよりを戻すことになった。当時、Aは、昭和北のアパートを引き払って星が浦のアパートに住んでおり、被告人は、同所で、C、D及びF子の三人の子供とともにAと同棲生活を始めた。

(二)  被告人は、平成九年五月ころ、Aと口論となり、灯油をかぶって焼身自殺をする振りをした。すると、Aは、激昂し、被告人の両肩と両ももを手拳で殴打し、さらに、金属製のパイプで被告人の手や足を殴打するなどの暴行を執拗に加えた。被告人は、手や足が腫れ上がって足腰の立たない状態となり、両肩と両ももには握り拳大のあざが一週間ほど残った。

(三)  Aは、星が浦のアパートに居住していた当時、CやDが食事の行儀が悪いときなどに、子供達のほおを平手で殴打するなどしていた。

4  釧路市材木町のアパート(以下「材木町のアパート」という。)での生活状況等

(一)  被告人は、前記3、(二)の暴行を受けた数日後、今度こそAと別れようと決心し、Aの留守のときを見計らい、実母宅に逃げた。このときは、実母からAと別れるように強く言われ、今度、Aの所に戻れば、親子の縁を切るとまで言われた。そして、子供達と独立した生活をするため、生活保護の受給手続を進めるとともに、北海道釧路郡釧路町豊美にアパートを見付け、平成九年六月初めころ、そこに転居することとなった。

なお、被告人は、右引っ越しの直前、実母と、Aの身分関係に関する書類のことなどで大喧嘩をしてしまい、喧嘩別れの状態になってしまった。

(二)  被告人は、平成九年六月初めの右(一)の釧路町豊美のアパートへの引っ越しの当日、突如現われたAから、「もう一度やり直そう。仕事も決まったから。暴力も振るわないと約束するし、子供もちゃんと可愛がると約束するから、やり直そう。」などと優しく言われ、これを信じてやり直すことにした。そして、Aと被告人は、材木町のアパートを新たに借り、そこで、C、D及びF子の三人の子供とともに同棲生活を始めた。なお、Aは、同年六月六日、C及びDと協議離縁している。

(三)  Aは、平成九年六月初めころから、暴力団の関与する硫黄山での卵売りの仕事を手伝うようになった。Aは、この仕事をしている間、半月ごとに約一五万円の手当を得ており、被告人らは、安定した生活を送っていた。また、Aが、被告人やC、Dに対し、度を超した暴力を振るうこともなかった。

(四)  Aは、平成九年一〇月一日、暴力団関係者との人間関係の悩みなどから、右(三)の卵売りの仕事を続けていけないと考え、世話になっていた暴力団組長宅に仕事を辞める旨の置き手紙をして仕事を辞めてしまった。そして、材木町のアパートを引き払い、被告人や三人の子供とともに北海道内各地を自動車で転々とした後、同月一〇日過ぎころ、北海道川上郡標茶町のAの実家に身を寄せた。なお、Aは、北海道内各地を自動車で転々とする間、子供達や被告人をたたくことがあった。

(五)  Aは、実家に身を寄せるようになってから、CやDを長時間正座させたり、起立させ、平手や手拳で殴打するなどのせっかんを度々加えるようになった。また、被告人も、Dがおねしょした時に一、二度ほおや臀部をたたいたことがあった。

5  釧路市鳥取南の甲野マンション一号室(以下「甲野マンション」という。)での生活状況等

(一)  Aと被告人は、平成九年一〇月二五日ころ、Aの親から現金一〇万円を出してもらって甲野マンションを借り、三人の子供とともに同棲生活を始めた。このころ、被告人は、妊娠約六か月の状態にあり、Aも、被告人が妊娠中であることを知っていた。

(二)  Aは、平成九年一一月初めころ、被告人のほおと肩を平手と手拳で七、八回、殴打した。さらに、その数日後、被告人に命じて正座させた上、手拳等で被告人の肩と両ももを、五、六分ほど、被告人が「前に何度も黙って出て行ったりしているから、もうそんなことしない。」などと言って謝るまで殴打し続け、被告人の両肩と両ももには、それぞれ一拳から一拳半くらいのあざが残った。いずれの暴行の際も、被告人は、抵抗するとAの暴行が更に激しくなるのではないかとの思いから、何ら抵抗することなくAの暴行を受け入れ、殴られるままになっていた。また、Aは、右二回の暴行とは別の機会に、被告人に裸で部屋から出て行くように命令したことがあった。その際、被告人は、Aの命令に唯々諾々と従って三人の子供とともに裸になり、子供達を連れて玄関まで行ったけれども、Aに制止され、結局、屋外に出ることはなかった。

(三)  被告人は、Aから強度の暴行を受けるようになって以降、子供達を連れてAの下から逃げ出したいと考えるようになった。しかし、Aが、働くこともなく家にいて留守になることがなかったほか、標茶の実家に食料をもらいにいくなど外出する際も、被告人を同行させており、被告人が三人の子供と四人だけになることはなかった。そのため、被告人は、逃げ出そうとしてAに見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいた。ところで、被告人は、Aからは出て行けと何回か言われていたものの、Aの出て行けとの言葉は本心ではなく、被告人を試すために言っているものと考えていた。

(四)  Aは、甲野マンションに入居して以降、新たな仕事に就く当てもなく、生活費にも事欠くようになったことなどから、不満やいらだちを募らせ、そのうっぷん晴らしのため、CやDに激しいせっかんを繰り返すようになった。すなわち、ほとんど毎日のようにCやDを半袖シャツとパンツだけで過ごさせた上、長時間立たせたり、正座させたりするなどしたほか、平手や手拳で顔面や頭部を殴打するなどしており、平成九年一一月一二日ころには、中指をやや突き出した手拳でDの額を殴っていた。被告人も、同月一三日ころ、CとDに、同月一五日ころ、Dにそれぞれせっかんを加えており、いずれのときも被告人の殴打によりCやDが転倒していた。なお、Aは、CやDを注意したときには、一〇回に八回程度は、右のような暴行に及んでいた。

(五)  被告人は、右(四)のように自らCやDにせっかんを加えたことはあったものの、AがCやDに激しいせっかんを加えていることに心を痛めており、助けてやりたいとは思っていた。しかし、Aから激しい暴行を受けたときの恐怖心が身に染みていた上、AがCやDにせっかんを加えているのを側で見ていて、Aから「何見てんのよ。」などと怒鳴られたことがあったことから、Aに逆らえば、酷い暴行を受けるのではないかと恐ろしく、また、Aが逆上してCやDに更に酷いせっかんを加えるのではないかとの思いもあって、CやDを助けるための行動に出ることができず、無関心を装っていた。

(六)  被告人一家は、甲野マンションに入居して以降、前記(四)のように生活費にも事欠いていたため、一日一、二回の食事しかとれず、おかずもほとんどないなど食事も満足にできない状態であった。そのため、Dは、死亡当時、体重が一一・七キログラムしかなく、同年齢の児童の平均体重より三・二キログラムも劣り、極度のるい痩状態にあった。

6  平成九年一一月二〇日(以下、6において、時刻のみ記載しているのは同日のことである。)の状況等

(一)  Aと被告人は、午後二時ころ、F子を連れてAの友人であるG宅へ向った。その際、Aは、CとDだけを自宅で留守番させ、Dに半袖シャツとパンツ姿のまま、壁に向かって立っているよう命じ、CにはDを見張っているよう命じて外出した。なお、Aは、トラック運転手をしているGとともに仕事をすることに期待を抱いており、仕事の打ち合わせをしようと上機嫌でG宅へ向かった。

(二)  Aと被告人は、午後三時四〇分ころから、G宅で過ごし、午後六時四五分ころ、G宅を辞去した。Aは、甲野マンションへの帰り道、久しぶりに会ったGとビールを飲んで歓談し、機嫌が良かったこともあって、G宅を訪ねる前に被告人が食べたいと言っていたドーナツを買ってやることにし、スーパーマーケットに寄ってドーナツ等を買った。

(三)  Aと被告人は、F子とともに、午後七時一五分ころ、甲野マンションに戻った。Aは、子供部屋(南東側の四畳半の部屋)のおもちゃが少し散らかっていたため、Cに誰が散らかしたのかと尋ねた。すると、Cが、Dが散らかした旨答えたことから、Dが言い付けを守らずにおもちゃで遊んでいたと思い込んで立腹し、隣の寝室(南西側の六畳の部屋)で立っていたDの方に向かった。

(四)  被告人は、右(三)のAのCに対する問い掛けとCの答えを聞き、AがDにいつものようなせっかんを加えるかもしれないと思った。しかし、早く夕食を作らなければAに怒られるとの思いなどから、台所の流し台で夕食用の米をとぎ始め、Aの行動に対しては無関心を装っていた。

(五)  Aは、Dに近付いて自分の方に向き直らせ、「おもちゃ散らかしたのはお前か。」などと強い口調で尋ねたものの、Dが何も答えなかったため、更に大きな声で「おもちゃ散らかしたのはお前か。」などと尋ねた。しかし、Dがそれにも答えず、逆にAを睨み付けるような目つきをしたため、このようなDの態度に腹立ちを募らせ、「横目で睨むのはやめろ。」などと怒鳴り、Dの左ほおを右の平手で一回殴打した。続いて、「お前がやったのか。」などと怒鳴ったけれども、やはりDが同様の態度をとったため、Dの左ほおから左耳にかけて右の平手で一回殴打したところ、Dがよろけて右膝と右手を床についた。Dの左腕を掴んで引き起こした上、また「お前がやったのか。」などと怒鳴ったけれども、なおもDが同様の態度をとり続けたことから、腹立ちが収まらず、Dの左ほおを平手で一回殴打した上、さらに、Dの頭部右側を手拳あるいは裏拳で五回にわたって殴打した。すると、Dが突然短い悲鳴を上げ、身体の左から倒れて仰向けになり、意識を失った(以上の一連の殴打を、以下「本件せっかん」という。)。なお、Aは、暴行を加えている途中で、おもちゃを散らかしたのはCで、Dが散らかしたと考えたのは自分の勘違いだったと気付いたけれども、Dが睨み付けるような目つきをするなどの態度を改めなかったことから、腹立ちが収まらず、暴行を続けていた。

(六)  被告人は、ほおをたたくようなぱしっという音を二、三回聞き、また、いつものせっかんが始まったと思ったものの、依然として米をとぎ続け、Aの行動には無関心を装っていた。しかし、今までにないDの悲鳴を聞き、慌てて寝室に行ったところ、既にDはAに抱えられ、身動きしない状態であった。

(七)  Aと被告人は、その後、Aの運転する自動車にDを乗車させて病院に向かい、午後八時一〇分ころ、市立釧路総合病院に到着した。Dは、直ちに開頭手術を受けたものの、翌二一日午前一時五五分ころ、Aの暴行による硬膜下出血、くも膜下出血等の傷害に伴う脳機能障害により死亡した(Aによる傷害致死の犯行を、以下「本件傷害致死」という。)。

(八)  被告人は、右病院で、担当医師から、Dが助からないとの説明を受けた。これを聞いて、生活力もなく暴力を振るうAと自分が何度もよりを戻したため、DがAにせっかんを加えられて死ぬことになってしまったという強い自責の念に駆られ、自分が処罰されることでDに償いをしたいと考え、Aの身代わり犯人となることを決意した。そして、医師の通報により右病院に駆け付けた警察官に自分の犯行である旨虚偽の申告をし、平成九年一一月二一日午前三時一〇分(逮捕時刻は、本件記録により認められる。)、傷害致死罪により緊急逮捕された。捜査段階では終始一貫して自分の犯行である旨虚偽の供述をし、同年一二月一一日、傷害致死罪により起訴され、同月二四日に至り、初めて同房者にAが真犯人である旨告白した。

三  ここで、事実認定上の争点について、検討することとする(以下、括弧内の甲・乙・弁の番号は証拠関係カード及び書証に記された検察官あるいは弁護人請求の証拠番号を表す。)。

1  検察官は、次のように主張する。すなわち、被告人は、CやDを邪魔者扱いしていた上、Aへの愛情や執着からAに嫌われることを恐れ、Aの機嫌をうかがう余り、AがCやDに暴力を振るっていても見て見ぬ振りをしていたのであり、後記2の被告人の供述は到底信用できない、というのである。そして、その根拠として、(1)被告人は、Aから暴行を受けて逃げ出しながら、Aに戻るよう優しい言葉をかけられてよりを戻すということを幾度も繰り返していたこと、(2)被告人は、甲野マンションに入居してからも、Aに、二度にわたり、「出て行け。」などと言われて暴行を加えられた際、「前に何度も黙って出て行ったりしているから、もうそんなことしない。」などと言って出て行くことを拒否したこと、(3)Aは、甲野マンションに入居して以降、被告人に対する愛情が薄れて目障りに思っており、被告人が出て行く気になればこれを妨げるものはなく、被告人が甲野マンションを出る機会や方法はいくらでもあったこと、(4)被告人は、甲野マンションに入居して以降、Aが、CやDに対する理不尽なせっかんを繰り返していたのに、一度としてこれを制止してCやDを保護しようとしたことはなく、むしろ、「あんたたちが悪いんだから怒られて当たり前だ。」などと言い放っていたこと、(5)被告人自らも、甲野マンションで、CやDにせっかんを加えており、平成九年一一月一三日ころと同月一五日ころのせっかんについては、これを見ていたAもやりすぎだと思ったこと、(6)被告人は、甲野マンションに入居してから、CやDに満足に食事も与えなかった上、極寒の釧路の地で半袖シャツとパンツだけで生活させていたこと、(7)被告人は、Aの本件傷害致死の犯行後、Aの身代わり犯人となって警察に逮捕され、終始一貫して、Aをかばって自分の犯行である旨供述していた上、Bの暴力については詳細に供述しながら、Aの暴力についてはほとんど供述していないことなどを指摘する(以下「検察官の指摘(1)」などという。)。

2  被告人は、この点に関して、本件公判が開始されて以降、当公判廷あるいは検察官調書(乙18から20まで)において、次のように供述している。すなわち、(1)甲野マンションでAから強度の暴行を受けるようになって以降、Aに愛情は抱いておらず、子供達を連れてAの下から逃げ出したいと考えていた、(2)しかし、Aが働くこともなく家にいて留守になることがなかったことから、逃げ出そうとしてAに見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいた、(3)甲野マンションに入居した後、Aからは出て行けと何回か言われていたけれども、Aの出て行けとの言葉は本心ではなく、被告人を試すために言っているものと思っていた、(4)Aから激しい暴行を受けたときの恐怖心や、AがCやDに暴力を振るっているのを側で見ていて、Aから「何見てんのよ。」などと怒鳴られたことがあったことなどから、Aに逆らえば、酷い暴行を受けるのではないかと恐ろしかった上、Aが逆上してCやDに更に酷いせっかんを加えるのではないかと思い、CやDを助けることができなかった、(5)身代わり犯人になったのは、Dを見殺しにしてしまったという自責の念から自分自身が罰を受けたかったためであり、Aをかばうつもりはなかった、というのである(以下「被告人の供述(1)」などという。)。

3  本件公判が開始されて以降の被告人の供述を通覧すると、例えば、後記四、2、(一)のとおり、本件せっかん時、AがDに暴行を加えることは分からなかった旨供述している点など信用できないところもある。しかし、被告人の供述(1)から(5)までについては、決して不自然、不合理なものではなく、検察官の指摘する諸点を踏まえて検討してみても、信用できないとして排斥することはできないというべきである。その詳細は、以下のとおりである。なお、検討に当たり、前記二の認定事実(ただし、被告人の供述(1)から(5)までを除くその余の証拠により認められる事実)を引くことがある。

(一)  被告人の供述の検討

(1) 被告人の供述(1)について

被告人は、平成九年二月ころ、Aに暴力を振るわれ、三人の子供を連れて実母宅に逃げた際には、離婚を決意し、現実に協議離婚している。さらに、同年五月ころ、星が浦のアパートで強度の暴行を受けたときには、今度こそAと別れようと決心し、実母宅に逃げた後、子供達と独立した生活をするため、生活保護の受給手続を進めるとともに、釧路町豊美にアパートを見付け、同年六月初めころ、そこに転居する手はずを整えていた。これらによれば、被告人は、少なくとも二度は、Aの暴力に耐えかねてAとの離別を真剣に決意したことがあったというべきである。このような被告人の従前の行動に加えて、被告人には甲野マンションに留まらなければならない格別の事情が認められないことを併せ考えると、Aから、二回にわたり強度の暴行を受けたほか、裸になって出て行くよう命じられ、実際、それを強いられそうになった上、生活費にも事欠き、食事さえ満足にとれない状態にあった被告人としては、Aの下から逃げ出そうと考えるのが自然であり、あくまで甲野マンションに留まろうと考える方がかえって不自然である。

ところで、被告人は、同年五月ころ、星が浦のアパートから実母宅に逃げた際、実母に、今度、Aの所に戻れば親子の縁を切るとまで言われながら、Aとよりを戻して材木町のアパートで同棲するようになった上、よりを戻す直前、実母と大喧嘩をして喧嘩別れの状態になってしまっていた。これによれば、被告人は、甲野マンションに居住していた当時、実母宅に戻りたくとも、戻れない状況にあったようにも考えられる。

しかし、被告人は、当公判廷において、材木町のアパートに居住していた当時、そう簡単に実母宅に帰れなかったのではないかと問われて、実母と喧嘩しているので、帰れないのは帰れなかったけれども、もし、暴力を振るわれたといって帰ったら、親だから多分入れてくれたと思う旨供述し、また、甲野マンションに居住していた当時、実母宅に逃げ帰ることはできなかったのではないかなどと問われて、戻ったら多分受け入れてくれたと思うし、Aとよりを戻したことで実母に負い目を感じていたけれども、戻ったら母親なので自分の気持ちを分かってくれると思っていた旨供述している。右供述の内容が、母と娘の自然な情愛に照らして、不自然、不合理なものではないこと、被告人の実母であるH子も、当公判廷において、被告人が助けを求めてくれば、子供のため、孫のため受け入れてやった旨供述し、被告人の逮捕から四日後に作成された警察官調書(甲22)において、自分としては、実の母親だし、可愛い孫なので、食べることができないくらいなら、いくらでも助けてやった旨供述しており、実母の右供述の信用性を疑わせる事情がないこと、本件証拠上、被告人が実母と喧嘩別れの状態になる以前、被告人と実母との間にわだかまりのあったことをうかがわせる格別の事情が認められないこと、被告人の右供述が訴因変更前の審理の比較的早期の段階(第四回公判・平成一〇年五月一九日)におけるものであり、被告人が、そのような時期に実母宅に戻れると思っていたかどうかについて、殊更に虚偽を述べるとは考えにくいこと、右供述が、実母宅には戻れなかったのではないかという趣旨の弁護人の質問に対する答えであることにかんがみると、被告人の右供述は信用できるというべきである。

なお、被告人は、Aの身代わり犯人になって逮捕された後、実母が、被告人の逮捕された事実を報道により知り、被告人の逮捕から四日後に自ら警察署に出頭するまで、実母の居場所を取調官に話していない。そして、この点に関して、警察官調書(乙9)において、Aとはもう会わないと実母に約束したのに、これを破って実母宅を飛び出し、Aとよりを戻してしまったので、いまさら助けてもらえないと思い、居場所を言えなかった旨供述している。しかし、被告人は、捜査段階では本件傷害致死が自分の犯行である旨虚偽の供述をしており、警察官調書(乙9)における右供述は、このような虚偽供述の流れに沿うものであるから、虚偽供述に符合させるためにされたものとみるのが自然であって、信用できない。他方、被告人は、実母の居場所を話さなかった点に関して、当公判廷において、別れるまでにしてくれたのに、喧嘩して、迷惑ばかり掛けているから、また実母に迷惑を掛けるのが申し訳なかった旨供述している。被告人がAとよりを戻して材木町のアパートで同棲するようになったいきさつや、傷害致死罪という重大な犯罪の身代わり犯人として逮捕されていた被告人の立場を考えると、右供述は自然であり、信用できるといえる。そうすると、被告人の逮捕から四日後に実母が自ら出頭するまで、被告人が実母の居場所を話さなかったという事実があるからといって、被告人の当公判廷における前記供述の信用性が損なわれることはないというべきである。また、Aの当公判廷における供述によれば、話をした時期は明確でないものの、被告人がAに実母と喧嘩して勘当されたという趣旨の話をしたことが認められる。しかし、被告人が、実母と喧嘩別れの状態となってしまったことから、Aに実母と喧嘩して勘当されたという趣旨の話をしつつ、内心では、前記供述のように思っていたとしても別段不自然ではないから、被告人がAに右の趣旨の話をしているからといって、被告人の当公判廷における前記供述の信用性が損なわれることはないというべきである。

そうすると、被告人は、甲野マンションに居住していた当時、実母宅に戻りにくい状況にはあったものの、Aの暴力が激しくなって逃げ戻ったら、実母は受け入れてくれると思っていた上、実母も、被告人が戻ってくれば受け入れるつもりであったことになるから、被告人が、甲野マンションに居住していた当時、実母宅に戻りたくとも、戻れない状況にあったとはいえない。

以上、要するに、甲野マンションでAから強度の暴行を受けるようになって以降の被告人は、Aの下から逃げ出そうと考えるのが自然であり、あくまで甲野マンションに留まろうと考える方がかえって不自然であるから、被告人の供述(1)は、自然かつ合理的なものというべきである。

(2) 被告人の供述(2)について

Aが寝ているときもあったのであるから、常識的に考えれば、被告人が甲野マンションを出る機会や方法はいくらでもあったように思われなくはない。

しかし、被告人は、昭和北や星が浦のアパートに居住していた当時、出て行こうとしてAに暴行を加えられたことが何度かあったこと、その当時、Aから、お前たちが逃げているから、安心して働けないなどと言われたことがあったこと(これらの事実は、被告人及びAの当公判廷における各供述により認められる。)、その当時、逃げようとするのをAに見付かって暴行を加えられるのを恐れ、常にAの留守のときを見計らって逃げ出していたことを併せ考えると、Aが働くこともなく家にいて留守にすることがなかったほか、外出する際も被告人を同行させていたため、被告人と三人の子供だけになることがなかったという甲野マンションに入居してからの状況は、被告人にとって極めて逃げ出しにくいものであったといえる。また、被告人は、昭和北や星が浦のアパートに居住していた当時から、Aに幾度となく暴行を加えられ、Aに面と向かって刃向かうことをしなくなっていた上、激昂したAから見境のない暴行を加えられた際にも、全く抵抗することなく暴行されるままになっていたことからすると、被告人は、甲野マンションに入居する以前から、既にAの暴力に恐怖心を抱いており、Aの暴力に全く抵抗できない状態になっていたというべきである。さらに、被告人は、甲野マンションに入居後、Aから、二回強度の暴行を受け、その際、暴行されるままになっていたほか、裸になって出て行けとのAの命令に唯々諾々として従い、実際に裸になって屋外に出ようとまでしているのであって、Aが、新たな仕事に就く当てもなく、生活費にも事欠くようになるなどしたため、不満やいらだちを募らせていたことを併せ考えると、甲野マンションでAから二回強度の暴行を受けた後の被告人は、Aの暴力に怯え、Aの機嫌を損ねることができない状態になっていたというべきである。のみならず、当時の被告人は、四歳のC、三歳のD、一歳に満たないF子を抱えていた上、被告人自身も妊娠約六か月の状態であったのであるから、三人の幼子と共に迅速に行動することが困難な状況にあったと認められる。

以上の諸事情を総合して考えると、被告人の供述(2)は、決して不自然、不合理なものではないというべきである。

(3) 被告人の供述(3)について

被告人は、昭和北や星が浦のアパートに居住していた当時、常にAの留守のときを見計らって逃げ出していたこと、その当時、Aから、お前たちが逃げているから、安心して働けないなどと言われたことがあることからすると、被告人がAのいないときを見計らって逃げ出すことは、被告人とAの双方にとって了解済みのことであったといえる(なお、Aは、当公判廷において、被告人は常にAの留守のときに出て行った旨供述している。)。にもかかわらず、Aは、甲野マンションに居住していた当時、家を留守にすることがなかった上、標茶のAの実家に食料をもらいに行くなど外出する際も、被告人を同行させており、口では出て行けと言ってはいるものの、行動では、それとは裏腹に被告人の出て行き易い状況を作ってはいなかったのであるから、被告人が、Aの出て行けとの言葉が本心ではないと考えた旨の被告人の供述(3)は、決して不自然、不合理なものではないというべきである。

(4) 被告人の供述(4)について

前記(2)のとおり、被告人は、甲野マンションに入居する以前から、Aの暴力に恐怖心を抱いていて、Aの暴力に全く抵抗できない状態になっていた上、甲野マンションでAから二回強度の暴行を受けた後は、Aの暴力に怯え、Aの機嫌を損ねることができない状態になっていたことからすると、被告人の供述(4)は、決して不自然、不合理なものではないというべきである。

(5) 被告人の供述(5)について

被告人は、当公判廷において、「生活力もなく、暴力も振るわれているのに、何回も帰って、同じことを繰り返して。そのために、あの子が暴力振るわれたということが、もう、どうしても耐えられなくて、自分がやったということで償いたいなってというか、なんの償いにもならないかもしれないけど、でも、Dに対して償いたいと思ったから。」などと身代わり犯人となった理由について供述(訴因変更前の供述である。)し、また、右公判供述後の検察官調書(乙18)において、「私は、このとき、Dが死ぬことがあれば、私が責任を取ろう、私がAの下に帰らなければこのようなことにはならなかった、Dを助けられなかったお母さんを許して、DをせっかんしたのはAかもしれないが、私がやってきたことはAと一緒だ、D、D、ごめんなさい、お母さんが罰を受けるから許して、という気持ちで一杯になりました。」などと本件せっかんの直後、Aに抱きかかえらたDの様子を見た際の心情を供述(訴因変更前の供述である。)している。これらの強い自責の念を率直に吐露した供述によれば、被告人が、自責の念、しかもかなり強い自責の念に駆られて身代わり犯人になったことは疑いないというべきである。問題は、被告人には、このようなかなり強い自責の念に加えて、さらに、Aをかばおうとの意思があったかどうかである。

Aの身代わり犯人になっているのであるから、常識的には、Aをかばおうとする意思もあったようにも思われる。しかし、被告人は、生活力もなく暴力を振るうAと自分がよりを戻したため、DがAにせっかんを加えられて死ぬことになってしまったという強い自責の念に駆られていたのであるから、そのような被告人の心情からすれば、被告人にはAをかばおうとする意思はなかったとみるのが自然である。また、Aの当公判廷における供述によれば、Aは、捜査中に三回ほど被告人と接見しており、その際、被告人に出てきたらやり直そうと持ち掛けたけれども、被告人からは別れたいと言われたことが認められる。また、被告人が真相を告白する以前の時点で、Aが被告人に宛て書いた手紙(弁1から5まで)の文面からは、被告人は、やり直しを求めるAに対し、一貫してこれを拒絶していたこと、Aが妊娠中の子の命名者になることも拒んでいたこと、接見の際にAがF子を連れて来ないことに落胆の態度を示し、AがF子を連れて来るまで、Aが接見しても笑顔を見せなかったこと、AにF子を児童相談所に預けるよう求め、Aがこれに不満を持っていたことが認められる。これらによれば、被告人は、真相を告白する以前から、F子には会いたがっていたものの、Aに対しては一貫して冷淡な態度をとっていた上、F子をAの下から引き離そうとしていたと認められるのであって、被告人のこのような言動は、Aをかばおうという意思をも有していた者のそれとは相容れず、かえって、Aをかばうつもりはなかった旨の被告人の供述(5)と符合するものである。

被告人は、捜査段階で、Aの暴力についてはほとんど供述していない。しかし、被告人の自責の念がかなり強いものであったことからすれば、被告人は、自身が確実に罰せられるよう、Aに捜査の手が及ばないようにしただけであって、別段Aをかばったわけではないとみることも可能であるから、被告人が捜査段階でAの暴力についてほとんど供述していないからといって、被告人がAをかばう意思まで有していたことの証左とはなり得ないというべきである。

被告人は勾留中にAとの接見に応じているけれども、被告人が、強い自責の念のみに駆られて身代わり犯人になったのだとすれば、Dを死亡させた真犯人であるAとの接見に応じることには、違和感を覚えなくはない。しかし、被告人は、この点に関して、当公判廷において、Aに会いたいのではなく、F子に会いたくて連れて来てもらった旨供述している。右供述は、拘禁されている母親の心理として理解できないものではない上、前記Aの被告人宛の手紙(弁2・3)の文面から認められる。接見の際にAがF子を連れて来ないことに落胆の態度を示し、AがF子を連れて来るまでAが接見しても笑顔を見せなかったという被告人の態度とも符合するものであるから、決して不自然、不合理なものではない。そうすると、被告人がAとの接見に応じていたという事実があるからといって、被告人が自責の念に加えてAをかばう意思まで有していたということはできない。

被告人が自責の念のみに駆られて身代わり犯人になったのであれば、有罪判決を受けるまで身代わり犯人を続けるのが自然であり、被告人が、起訴後、二週間ほどで真相を告白するに至っていることには、やはり違和感を覚えなくはない。しかし、被告人は、この点に関して、当公判廷において、Aの手紙の内容や面会の際の言葉が、従前の被告人とよりを戻す際と同様の調子のよいものであったため、我慢ができなくなり、Aに憎しみがわいてきたことから、同房者に真相を打ち明けた旨供述している。右供述は、前記Aの被告人宛の手紙(弁1から5まで)の文面が、Aの被告人に対するやさしい語り掛けの言葉に満ちているという事実と符合している。また、Dの死について強い自責の念に駆られていた被告人が、Dの死亡に本来責任を負うべきAの被告人に対する無反省ともいえる態度に嫌悪の情を抱き、それが自責の念を凌駕して被告人に真相を告白するに至らしめるということは、人間の感情の推移として不自然なものではなく、十分にあり得ることである。これらによれば、被告人の右供述は、決して不自然、不合理なものではない。そうすると、被告人が、起訴後、二週間ほどで真相を告白するに至ったという事実があるからといって、被告人が自責の念に加えてAをかばう意思まで有していたということはできない。

以上、要するに、被告人の供述(5)は、決して不自然、不合理なものではないというべきである。

(二)  検察官の主張の検討

(1) 検察官の指摘(1)について

前記(一)、(1)のとおり、被告人は、少なくとも二度は、Aの暴力に耐えかねてAとの離別を真剣に決意したことがあったのであるから、継続して、Aに愛情や執着を有していたとはいえない。

暴力を振るわれるなどしてAに恐怖心や嫌悪感を抱き、一度は逃げ出して真剣に離別を決意しながら、Aの優しい言葉にほだされてよりを戻し、再び暴力を振るわれるなどして恐怖心や嫌悪感を抱き、逃げ出すというように、Aの態度に応じて相反する二つの感情の間を行つ戻りつすることは、女性心理として理解できないものではない。このような女性心理の機微については、Aの前妻であるE子が、警察官調書(甲38)において、(ア)Aから暴力を振るわれて実家に逃げ帰ることも何回も繰り返した後、ついには勝手に離婚届を出し、怒って追い掛けて来るかもしれないAの暴力を恐れ、避隔地の函館に三か月ほど身を隠した、(イ)その後、釧路の実家に戻ったところ、Aからやり直そうなどと言われ、その言葉にほだされてよりを戻した、(ウ)しかし、Aの相変わらずの生活態度に愛想が尽きた旨Aとの離別に至る心情を語っていることからも、理解し得るところである。なお、被告人は、検察官調書(乙19)において、「私は、Aの愛情を確かめるために、黙って家出をしていたのかも知れません。」などと供述している。しかし、右供述は、振り返って考えてみればそうかもしれないという類の後付けの理屈ともいうべきものであって、体験した当時の心境を有り体に語ったものとは認め難い。

以上、要するに、被告人が、Aから暴行を受けて逃げ出しながら、Aに戻るよう優しい言葉をかけられてよりを戻すということを幾度も繰り返していたからといって、被告人が継続してAに対する愛情や執着を有していたことの証左にはなり得ないというべきである。かえって、被告人は、Aの態度に応じて、相反する二つの感情の間を行つ戻りつしていたと認めるのが相当である。

(2) 検察官の指摘(2)について

被告人が、甲野マンションに入居して以降、Aから、二回にわたり「出て行け。」などと言われて暴行を加えられながら、その際、「前に何度も黙って出て行ったりしているから、もうそんなことしない。」などと言って出て行くことを拒否したという検察官の主張する事実を、本件証拠上、そのまま認定することはできない。

この点に関する証拠関係は、次のとおりである。すなわち、Aは、検察官調書(甲36)において、(ア)被告人に出て行けと言ったところ、被告人が、「今までのように黙って出て行ったりしないから、ここにいる。帰るところがない。」などと言ってきた、(イ)暴行を加えれば被告人が出て行くだろうと思い、被告人に暴行を加えたけれども、出て行かなかった旨供述している。他方、Aは、当公判廷において、当初、(ウ)被告人に別れたいと言ったところ、被告人が、前にも黙って出て行ったりしているから、もうそんなことはしないなどと言った、(エ)出て行ってもらいたくて、被告人に暴力を振るった旨供述し、次いで、(オ)甲野マンションでは、被告人に二回強度の暴行を加えたことがあり、二回目の暴行を加えた際、被告人が、前にも何度も黙って出て行ったりしているから、もうそんなことしないなどと言って謝ったので、暴行をやめた旨供述している。右各供述は、被告人が黙って出て行ったりしないなどと言ったことと、被告人に暴行を加えたこととの前後関係や、被告人の発言内容に食い違いがある上、Aが被告人に暴行を加えた際の状況が必ずしも明確ではない。そうすると、被告人の当公判廷における供述と概ね一致している右公判供述(オ)に沿った事実を認定するのが相当である。そこで、前記二、5、(二)のとおり、被告人は、平成九年一一月初めころから、Aから、ほおと肩を平手と手拳で七、八回、殴打された数日後、Aに、正座させられた上、手拳等で肩と両ももを、五、六分ほど、殴打され続け、「前に何度も黙って出て行ったりしているから、もうそんなことしない。」などと言って謝ったところ、殴打が終わったという事実を認定した。

右事実は、被告人の供述(1)から(3)までと両立するものである。なぜなら、被告人は、子供達を連れてAの下から逃げ出したいと考えていたものの、Aの暴力を恐れて逃げ出せずにいた上、出て行けとのAの言葉は本心ではなく、被告人を試すために言っていると考えていたという右(1)から(3)までを前提とすると、被告人は、昭和北や星が浦のアパートに居住していた当時、出て行こうとしてAから暴行を受けたことが何度かあったほか、Aから、お前たちが逃げているから、安心して働けないなどと言われたことがあった上、前記(一)、(2)のとおり、被告人は、甲野マンションに入居する以前から、Aの暴力に恐怖心を抱いていて、Aの暴力に全く抵抗できない状態になっていたのであるから、被告人が、Aから殴打されても、なおAの機嫌を損ねないように迎合的な態度をとろうとし、被告人を出て行かせたくないというAの内心の意思を忖度して、「前に何度も黙って出て行ったりしているから、もうそんなことしない。」などと言って謝ったとしても何ら不自然、不合理ではないからである。

(3) 検察官の指摘(3)について

前記(一)、(2)で検討した諸事情を総合して考えると、検察官の指摘(3)は当を得ず、かえって、被告人の供述(2)は、決して不自然、不合理なものではないというべきである。

(4) 検察官の指摘(4)について

まず、甲野マンションに入居して以降、Aのせっかんを一度も制止していないことに関して、被告人は、被告人の供述(4)のように説明している。右説明は、前記(一)、(4)のとおり、決して不自然、不合理なものではないから、被告人が、甲野マンションに入居して以降、Aのせっかんを一度も制止していないからといって、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左となり得るものではない。

次に、AがCやDにせっかんを加えているとき、あんたたちが悪いんだから怒られて当たり前だなどと言ったことに関して、被告人は、そのような発言をしたことを自認している。しかし、Aの当公判廷における供述によれば、被告人の右発言は、検察官の主張するように甲野マンションのときではなく、甲野マンションに入居する前の標茶のAの実家に被告人一家が身を寄せていたときの出来事と認められる。

被告人は、右発言について、当公判廷において、本心で言ったわけではなく、そのように言えば、Aも収まると思って言った旨供述する。関係証拠によれば、被告人一家が標茶のAの実家に身を寄せていたとき、AのCやDに対するせっかんは徐々に激しくなりつつあったものの、本件せっかん当時のそれと比べれば、まだ、それ程激しいものではなかったと認められることからすると、この当時の被告人としては、Aがせっかんを加えている際にそれを収めるべく声をかける程度の行動をする余地があったものといえる上、Aのせっかん中に被告人が右のような発言をした場合には、せっかんをしているAが我に返り、さらに強度のせっかんに及ぶのを中止すると被告人が考えたとしても、あながち不自然ではないというべきである。被告人の発言内容は、その発言時の状況からすると、いささか冷淡に感じられる面はあるものの、発言した言葉自体は、叱責された子供をたしなめるために通常使われるものである上、前記(一)、(2)のとおり、被告人が、甲野マンションに入居する以前から、既にAの暴力に恐怖心を抱いており、Aの暴力に全く抵抗できない状態にあったことからすれば、Aの激昂を恐れてこのような冷淡な表現に留まらざるを得なかったとしても何ら不思議ではない。これらによれば、被告人の右供述は、必ずしも不自然、不合理なものではないというべきである。そして、右供述を前提とすれば、被告人があんたたちが悪いんだから怒られて当たり前だなどと言ったという事実は、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左になり得るものではなく、右事実は、被告人の供述(4)と矛盾するものではない。

(5) 検察官の指摘(5)について

被告人は、平成九年一一月一三日ころと同月一五日ころの二回、甲野マンションで、CやDにせっかんを加えた点に関して、当公判廷において、自分がはたかなければ、Aがはたくことになると考え、加減の分かっている自分がはたいた方がよいと思い、はたいた旨供述している。

被告人一家は、同年一〇月二五日ころ、甲野マンションに入居して以降、生活費にも事欠き、食事さえ満足にとれない状態にあったこと、Aは、そのころから、不満やいらだちを募らせ、そのうっぷん晴らしのため、CやDに激しいせっかんを繰り返していたこと、被告人は、同年一一月初めころとその数日後の二回にわたり、Aから強度の暴行を加えられ、その際、何ら抵抗することなく暴行されるままになっていたことにかんがみると、同月一三日ころと同月一五日ころの被告人は、一種の極限状態に置かれていたというべきである。加えて、被告人が、当時、妊娠約六か月であったことを併せ考えると、妊婦特有のやや不安定な精神状態から、Aの激しいせっかんを目の当たりにしている被告人が、その供述するような、自分がはたかなければ、Aがはたくことになると考え、加減の分かっている自分がはたいた方がよいと思ったという心理状態に陥ることも、あり得ないことではないと考えられる。被告人の右供述を、不自然、不合理とまで断じることはできない。そして、右供述を前提にすれば、被告人が、甲野マンションで、二回、CやDにせっかんを加えたという事実は、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左となり得るものではなく、右事実は、被告人の供述(4)と矛盾するものではない。

仮に、被告人の右供述が信用できず、真実は、被告人が腹立ち紛れにCやDに対して二回せっかんに及んだのだとしても、右事実から、直ちに、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたと認めることには疑問が残るというべきである。すなわち、同月一三日ころと同月一五日ころの被告人は、一種の極限状態に置かれていたと考えられる上、妊婦特有のやや不安定な精神状態にあったとしても不思議ではなかったこと、甲野マンションでの被告人のCやDに対する軽度とはいえないせっかんが右二回に留まっている上、被告人がAと一緒になってせっかんを加えた事実はない(この事実は、被告人及びAの当公判廷における各供述により認められる。)こと、後記(6)のとおり、被告人には、決して十分とはいえないまでも、CやDに対するある程度の愛情はあったことをうかがわせる事実が認められることにかんがみると、甲野マンションに居住していた当時のCやDが、食事も満足に与えられていなかった上、Aから激しいせっかんを加えられ続けていたことや、同月一三日ころと同月一五日ころの被告人のせっかんが、CやDが倒れるほどの必ずしも軽度なものではない(Aは、当公判廷及び検察官調書(甲36)において、被告人のせっかんは、Aからみてもやりすぎと思うほどであった旨供述しているけれども、Aの供述を通覧すると、検察官調書(甲36)において、せっかんの激しさという点では、本件せっかんよりも同月一三日ころの被告人のせっかんの方が上回っていた旨供述するなど、自己の心理的負担を軽減したいとの思いからか、同月一三日ころと同月一五日ころの被告人のせっかんの程度を殊更に強調している節がうかがわれるのであって、被告人のせっかんの程度に関するAの供述をそのまま信用することには疑問が残るというべきである。)ことを考慮してみても、被告人が、腹立ち紛れに、二回、CやDにせっかんを加えたという事実から、直ちに、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたと認めるには疑問が残るというべきである。

(6) 検察官の指摘(6)について

まず、CやDが、甲野マンションに居住していた当時、食事を満足に与えられていなかったことに関しては、Aが、甲野マンションに入居して以降、全く仕事をせず、生活費にも事欠いていたため、被告人一家は食事も満足にできない状態にあった上、Aが生活費を全て管理していた(この事実は、被告人及びAの当公判廷における各供述により認められる。)のであるから、CやDが食事を満足に与えられなかったのは、専らAの責任であり、被告人にはなす術がなかったというべきである。そうすると、CやDが食事を満足に与えられていなかったという事実は、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左とはなり得ない。

次に、CやDが、甲野マンションに居住していた当時、ほとんど半袖シャツとパンツだけで生活させられていた点に関して、被告人は、Aから、CやDに着せるものはないと言われ、それに逆らえなかった旨供述している。被告人及びAの当公判廷における各供述によれば、Aは、甲野マンションに居住していた当時、被告人に対し、CやDに着せる服はないと言ったことが認められる。右事実に加えて、前記(一)、(2)のとおり、被告人は、甲野マンションに入居する以前から、Aの暴力に恐怖心を抱いていて、Aの暴力に全く抵抗できない状態になっていた上、甲野マンションでAから二回強度の暴行を受けた後は、Aの暴力に怯え、Aの機嫌を損ねることができない状態になっていたことを併せ考えると、被告人の右供述は、決して不自然、不合理なものではない。そして、右供述を前提にすれば、被告人が、甲野マンションでCやDをほとんど半袖シャツとパンツだけで生活させていたという事実は、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左とはなり得ない。

また、検察官は、次のような事情も、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの根拠になる旨主張する。すなわち、<1>被告人は、本件せっかん当日、AがDに対し半袖シャツとパンツだけで西壁に向かって起立したまま留守番しているように命令しても何ら異議を唱えず、Aとともに笑みを浮かべながらF子だけを連れて外出し、その後、Dのことを気遣った形跡もないまま、五時間余り後に帰宅していること、<2>本件傷害致死の犯行後、CをAの下に残したまま、Aの身代わり犯人となって逮捕されていること、<3>CやDを邪魔者扱いしていた心情を語った被告人の捜査段階における供述が迫真性に富んでおり、真実を語ったとしか思われないこと、<4>施設に預けられたCは、愛情の受け方を知らない状態で、被告人の写真を見せられても、何の関心も示さなかったことなどの事情が根拠になる、というのである。

右<1>については、なるほど、関係証拠によれば、検察官主張のとおりの事実が認められ、この点だけを取り出せば、被告人がAに対してだけ関心を持ち、Dの身を全く案じていなかったようにみえる。しかし、前記(一)、(2)のとおり、本件せっかん当日ころの被告人は、Aの暴力に怯え、Aの機嫌を損ねることができない状態にあったのであるから、AのDに対する仕打ちに憤りを感じながら、異議を唱えられなかったという可能性も考えられるのであって、被告人が異議を唱えなかったという外形的事実だけから、直ちに、被告人がDの身を全く案じていなかったということはできない。また、被告人は、Aに行かないかと声を掛けられて特に拒まず、Aに同行している(この事実は、被告人及びAの当公判廷における各供述により認められる。)点と、笑みを浮かべながら外出した点に関して、当公判廷において、(ア)甲野マンションに残って子供達と一緒にいたかったけれども、そのように言ったら、Aが怒るに決まっているし、今までも一緒に連れていかなかったことがなかったので、自分も行かなければいけないと思った、(イ)変な顔をしていると文句を言われるのは分かっていたので、笑っていた方がAも気分がよいだろうと考えて作り笑いをした旨供述している。当時の被告人が、Aの暴力に怯え、Aの機嫌を損ねることができない状態にあったことからすると、被告人が、右に供述するような心理状態で、Aに同行することにし、外出する際に笑みを浮かべたとしても、決して不自然、不合理ではない。右供述を前提にすれば、被告人が、Aに同行することにし、外出する際に笑みを浮かべたという事実があるからといって、被告人がDの身を全く案じていなかったことの証左にはなり得ない。さらに、右供述を前提とし、被告人が、Aの暴力に怯え、Aの機嫌を損ねることができない状態にあったことを併せ考えると、被告人が、Dのことを気遣った形跡もないまま、五時間余りAに同行していたとう事実も、被告人が、Aの機嫌を損ねるのを恐れてAに同行していたとみるのが自然である。右事実があるからといって、被告人がDの身を全く案じていなかったことの証左にはなり得ない。

右<2>については、なるほど、被告人は、Aの本件傷害致死の犯行直後、Aの身代わり犯人となって警察に逮捕されており、結果として、CがAの下に残されてしまっている。しかし、被告人は、この点に関して、当公判廷において、(ア)身代わり犯人になろうと決意した当初は、Dのことしか頭になく、自分が罪をかぶればよいという気持ちだけで、CとF子のことは考えていなかった、(イ)しばらくして、CがDの二の舞になるのは嫌だと思い、警察に相談しようと考えた旨供述している。右(ア)は、前記(一)、(5)のとおり、被告人の自責の念がかなり強いものであったことからすれば、決して不自然、不合理なものではない。また、右(イ)は、前記(一)、(5)のとおり、被告人がAにF子を児童相談所に預けるようAに求め、Aがこれに不満を持っていたという、被告人が、Aとの間の子であるF子でさえ、Aの下から引き離そうとしていた事実と符合している(なお、関係証拠によれば、Cについては、被告人が逮捕された当日かその翌日ころ、児童相談所に保護され、平成九年一二月二四日、児童福祉施設に入所したことが認められる。)。そうすると、右(ア)、(イ)は、決して不自然、不合理なものではないというべきであり、被告人が、Aの身代わり犯人となって警察に逮捕され、結果としてCがAの下に残されてしまったという事実があるからといって、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左になり得るものではない。

右<3>については、なるほど、CやDを邪魔者扱いしていた心情を語った被告人の捜査段階における供述は迫真性に富んでいるようにみえる。しかし、被告人は、捜査段階において、全くの虚偽である実行行為の部分についても、図面を書きながら、具体的かつ詳細に臨場感に富んだ供述をしていることからすると、CやDを邪魔者扱いしていた心情を語った被告人の捜査段階における供述が迫真性に富んでいるからといって、直ちに、右供述が真実であるとはいえない。そして、前記(一)、(5)のとおり、被告人の自責の念がかなり強いものであったことや、被告人が、取調官に特別の理由がなければ母親が自分の子に酷い暴行を加えることはないと指摘されて初めて、CやDを邪魔者扱いしていた心情を語り始めていることからすると、強い自責の念に駆られ、自らを罰したいとの強い思いを抱いた被告人が、取調官の指摘に合わせて、必死に虚偽の心情を語るうち、結果として、それが迫真性に富むものになったとしても格別不思議ではない。これらによれば、CやDを邪魔者扱いしていた心情を語った被告人の捜査段階における供述が迫真性に富んでいるからといって、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左にはなり得ないというべきである。

右<4>については、なるほど、関係証拠によれば、Cは、児童福祉施設に入所して以来、被告人を恋しがったり、自分から被告人のことを話すことが一切なかったほか、平成一〇年六月四日に来所した警察官から、被告人の写真を見せられても、興味を示さなかったことが認められる。しかし、Cは、施設に入所する一か月ほど前までAから激しいせっかんを受け続けており、この間、被告人の助けも受けられなかった(なお、Aが恐ろしくてCやDを助けられなかった旨の被告人の供述(4)が決して不自然、不合理なものでないことは、前記(一)、(4)のとおりである。)のであるから、このようなCが心を閉ざし、愛情の受け方を知らないような態度を示したり、また、被告人の写真を見せられても何の関心も示さなかったとしても、それだけでは、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左にはなり得ないというべきである。

さらに、検察官は、次のような事情も、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの根拠になる旨主張する。すなわち、<5>被告人は、Dらが喘息や水痘を罹った際にも、夜間、アパートにCとDだけを置いてスナックに働きに出ていたこと、<6>CとDを二人だけでアパートに残していながら、スナックの仕事の終わった後も、客と飲食に出かけるなどしていたこと、<7>平成八年三月下旬、Aと朝まで飲み歩き、翌日、ドライブに出かけ、その日の夜には自ら申し出てAとの同棲を開始していること、<8>平成九年三月、Cらを施設に預けるため、Bから同人の戸籍謄本を入手していたことなども根拠になる、というのである。

なるほど、関係証拠によれば、右<5>、<6>、<7>の事実を認めることができる(なお、右<8>については、関係証拠によれば、被告人が、平成九年三月中旬ころ、Bから同人の戸籍謄本を入手したことが認められ、Bは、警察官調書(甲30)において、同年二月ころ、被告人の姉から、被告人がAに暴力を振るわれているので何とかしてやってほしいと言われ、さらに、被告人からも、子供を施設に預けるので、戸籍謄本を家庭裁判所に提出して手続をするからと頼まれ、被告人に戸籍謄本を渡した旨供述している。しかし、被告人は、この点に関して、当公判廷において、家庭裁判所で、子の姓を変更する手続のためにBの戸籍謄本が必要と言われて、Bに頼んだ旨供述している。B及び被告人の右各供述に、被告人が、同月ころ、Aの暴力などが原因で実母宅に逃げ、同年三月六日、Aと協議離婚してC及びDの親権者になったことを併せ考えると、Aと離婚してC及びDの親権者となることを決意した被告人が、CとDをAの戸籍から被告人の戸籍に移そうと考えて家庭裁判所に相談に行き、担当者から、子の氏の変更(民法七九一条)の手続をする必要があると説明され、身分関係を明確にするためにBの戸籍謄本も提出するよう指導された可能性も否定できない。そうすると、Bの右供述は、戸籍謄本を必要とした理由について勘違いをしている可能性が残るから、右<8>の事実を認めることはできない。)。

しかし、関係証拠によれば、被告人は、Bと離婚した後、CやDを実父母に託すのではなく、自ら育てていること、被告人は、スナックに勤めていたとき、CやDを寝かしつけてから働きに出ていたこと、Dが病気になった際には、小児科で受診させていたこと、Aから暴行を受けて実母宅に逃げる際には、CやDを一緒に連れて逃げるか、いったん単身で逃げて、その後、迎えに行くなどしていたこと、実母に対し、Aが、外出するときに被告人を一緒に連れていくけれども、CやDは家にそのまま残してきてしまうため、CやDの食事の支度もしてあげられないなどと、AがCやDをあまり可愛がってくれない旨訴えていたこと、Aは、実母宅に逃げた被告人とよりを戻そうとする際には、常に、子供を可愛がる旨被告人に約束していたこと、被告人は、甲野マンションに居住していた当時、Aに命じられて立たされていたDがトイレに行こうとして、Aからどこに行くのかと言われた際、トイレに行くと言いなさいとDに教えて、Dを気遣う態度を示したことがあったことが認められ、これらの事実からすると、被告人には、決して十分とはいえないものの、子供に対するある程度の愛情はあったものと認められる。このような点も併せ考えると、検察官の主張する前記<5>、<6>、<7>の事実があるからといって、被告人がCやDを邪魔者扱いしていたことの証左にはなり得ないというべきである。

(7) 検察官の指摘(7)について

前記(一)、(5)で検討したところによれば、検察官の指摘(7)は当を得ないというべきであり、かえって、被告人の供述(5)は、決して不自然、不合理なものではないというべきである。

なお、検察官は、被告人が、Bの暴力についてのみ詳細に供述している旨主張するけれども、被告人は、取調官から、特別の理由がなければ、母親が自分の子に酷い暴行を加えることはないと指摘されて、CやDを邪魔者扱いしていた旨供述し始め、その理由との関連でBの暴行について若干供述しているだけであるから、被告人が殊更にBの暴行についてのみ供述していたとはいえない。

4  以上の検討によれば、被告人の供述(1)から(5)までは、全体として一貫している上、被告人は、昭和北や星が浦のアパートに居住していた当時、Aの暴力に耐えかねてAの下から逃げ出したということが幾度もある上、Aの下から逃げ出した後、少なくとも二度はAとの離別を真剣に決意していたこと、甲野マンションに入居する以前から、既にAの暴力に恐怖心を抱いており、Aの暴力に全く抵抗できない状態になっていたこと、さらに、甲野マンションでAから二回強度の暴行を受けた後の被告人は、Aの暴力に怯え、Aの機嫌を損ねることができない状態になっていたこと、Aは、甲野マンションに入居後、CやDに激しいせっかんを繰り返していたこと、被告人は、Aの身代わり犯人となった後、一貫してAに冷淡な態度をとっていたことなどの事実関係との関連において、決して不自然、不合理なものではなく、また、検察官の指摘する諸点を踏まえてみても、決して不自然、不合理なものではないから、被告人の供述(1)から(5)までを信用できないとして排斥することはできないというべきである。そこで、前記二の本件の事実経過については、被告人の供述(1)から(5)までに沿う事実を認定した。

四  前記二の認定事実に基づき、被告人に傷害致死幇助罪が成立するか否かを検討することとする。

1  不作為による幇助犯が成立するためには、他人による犯罪の実行を阻止すべき作為義務を有する者が、犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たにもかかわらず、これを放置しており、要求される作為義務の程度及び要求される行為を行うことの容易性等の観点からみて、その不作為を作為による幇助と同視し得ることが必要と解すべきである。

2  被告人の作為義務について

(一)  作為義務の有無及び程度について

被告人は、わずか三歳六か月のDの唯一の親権者であったこと、Dは栄養状態が悪く極度のるい痩状態にあったこと、Aが、甲野マンションに入居して以降、CやDに対して毎日のように激しいせっかんを繰り返していたこと、被告人は、本件せっかんの直前、Aが、Cにおもちゃを散らかしたのは誰かと尋ね、Cが、Dが散らかした旨答えたのを聞き、Dに暴行を加えるかもしれないことを認識していたこと、Aが本件せっかんに及ぼうとした際、室内には、AとDのほかには、四歳八か月のC、生後一〇か月のF子及び被告人しかおらず、DがAから暴行を受けることを阻止しうる者は被告人以外存在しなかったことにかんがみると、Dの生命の安全の確保は、被告人のみに依存していた状態にあり、かつ、被告人は、Dの生命の安全が害される危険な状況を認識していたというべきであるから、被告人には、AがDに対して暴行に及ぶことを阻止すべき作為義務があったと認められる。そして、Dの年齢や身体状態、AがDらに激しいせっかんを繰り返していたことからすると、被告人に認められる作為義務の程度は、一定程度強度なものであったというべきである。しかし、被告人は、甲野マンションで、Aから強度の暴行を受けるようになって以降、子供達を連れてAの下から逃げ出したいと考えていたものの、逃げ出そうとしてAに見付かり、酷い暴行を受けることを恐れ、逃げ出せずにいたことを併せ考えると、その作為義務の程度は極めて強度とまではいえない。

ところで、被告人は、当公判廷において、AがDに暴行を加えるかもしれないことを認識していなかった旨供述する。しかし、Aが、甲野マンションに入居して以降、CやDに対して毎日のように激しいせっかんを繰り返していたこと、被告人は、甲野マンションに入居して以降、Aが、CやDを注意したとき、八割程度は暴行に及んでいたと認識していたこと、本件せっかんの始まる直前、Aが、おもちゃを散らかしたのは誰かとCに尋ね、Cが、Dが散らかした旨答え、被告人は、AとCとの右やりとりを聞いていたことにかんがみると、被告人は、AがDに対して暴行に及ぶことについて、少なくとも未必的な認識を有していたと認めるのが相当である。これに反する被告人の右供述は信用できない。

(二)  被告人に具体的に要求される作為の内容について

罪刑法定主義の見地から不真正不作為犯自体の拡がりに絞りを掛ける必要がある上、不真正不作為犯を更に拡張する幇助犯の成立には特に慎重な絞りが必要であることにかんがみると、Aの暴行を阻止すべき作為義務を有する被告人に具体的に要求される作為の内容としては、Aの暴行をほぼ確実に阻止し得た行為、すなわち結果阻止との因果性の認められる行為を想定するのが相当である。前記1で、不作為による幇助犯が成立するための第一の要件として、他人による犯罪の実行を阻止すべき作為義務の存在を、第二の要件として、犯罪の実行をほぼ確実に阻止し得たことをそれぞれ挙げているのは、このような観点に基づくものである。

そうすると、被告人に具体的に要求される作為の内容としては、Aの暴行を実力をもって阻止する行為を想定することができる。

検察官は、この点に関して、被告人に具体的に要求される作為の内容としてAとDの側に寄ってAがDに暴行を加えないように監視する行為、あるいは、Aの暴行を言葉で制止する行為も想定すべきである旨主張する。

そこで、まず、AがDに暴行を加えないように監視する行為についてみてみると、それ自体ではAの暴行をほぼ確実に阻止し得たといえないことは、検察官も自認しているところである。次に、Aの暴行を言葉で制止する行為についてみると、Aは、当公判廷及び検察官調書(甲37)において、被告人が声を掛けるなどして止めてくれれば、Dに対する暴行を中止していた旨供述している。しかし、Aは、甲野マンションに入居して以降、不満やいらだちを募らせ、そのうっぷん晴らしのため、CやDに毎日のように激しいせっかんを繰り返していたこと、本件せっかん時も、Dが言い付けを守らずにおもちゃで遊んでいたと思い込んで立腹した上、Dが「おもちゃ散らかしたのはお前か。」などとの問い掛けに答えず、逆に睨み付けるような目つきをしたことに腹立ちを募らせて暴行に及び、さらに、せっかんの途中でDがおもちゃを散らかしたと思ったのは勘違いだと気付きながら、Dが同様の態度をとり続けたことから腹立ちが収まらず、Dへの暴行を続けたこと、従前から、激昂すると、被告人に対して見境のない暴行を加えていたこと、前妻のE子に対しても、いったん怒りが爆発すると、手加減せず、気が済むまで暴力を振い続け、そのため、E子は顔が腫れ上がり外出できないこともあった(この事実は、E子の警察官調書(甲38)により認められる。)こと、被告人がAのせっかんを見ていただけで、被告人に「何見てるのよ。」などと文句を言ったことがあることにかんがみると、Aが、その供述するように、被告人がやめるよう声を掛けるなどしてくれれば、Dに対する暴行を中止していたとは認め難い。また、Aは、平成一〇年六月二〇日付け検察官調書(甲36)において、(ア)CやDにせっかんをしていた際、被告人がCやDをかばって面と向かってものを言ってくることを期待しており、その場は多少の口論になるかもしれないが、きっちりと別れ話をまとめることができると思っていた、(イ)それなのに、CやDをせっかんし続けても、被告人が、CやDはいらない子だ、どうなってもいい、というような態度をとり、見て見ぬ振りをしていたので、このような態度が気に入らず、CやDに対するせっかんをエスカレートさせていった旨供述し、さらに、同月二二日付け検察官調書(甲37)において、(ア)被告人が、「やめなさいよ。」とか「そんなことしないで。」とか言ってきて止めたり、体を張ってDをかばうようなことをしてくれれば、Dを殴るのをやめたと思うし、むしろ、被告人がそのように面と向かって言ってくることを望んでいた、(イ)被告人が何を考えているのか分からず、一緒に生活をするのが苦痛で、このことがCやDをせっかんする原因になっていたのであり、被告人が正面切って話をしてくれれば、これ以上、Dを痛めつける理由もないことになる旨供述しているけれども、当初の証人尋問(第二回公判・平成一〇年五月一二日、第三回公判・同月一五日)の際、右のような供述は全くしておらず、八回殴っていて途中でやめようと思わなかったかと問われて、Dの睨むのが止まらず、途中でやめようかなと思ったけれども止まらなかった旨供述していたのみであった。このように、Aは、当初、Dが睨むのをやめなかったから暴力を止めれなかった旨供述していたのみでありながら、その後、被告人がCやDをかばうことを期待していたのに、被告人が見て見ぬ振りをしたのでせっかんをエスカレートさせたなどと被告人にも責任があるという趣旨の供述をし始め、さらに、被告人が止めてくれれば、Dに対する暴行を中止していた旨供述するに至っており、その供述経過からすると、Aは、自己の心理的負担を軽減したいとの思いから、右検察官調書における供述をするようになったのではないかとの疑問を払拭し難い。のみならず、Aは、当公判廷において、(ア)被告人がAのせっかんを止めるとは思っていなかった、(イ)被告人がAに面と向かって刃向かうことはなかった旨供述しており、このような被告人の行動傾向についての認識に関する供述と、右検察官調書における被告人が制止するのを期待していたという心情に関する供述との間には、相容れないものがある。これらによれば、被告人が声を掛けるなどして止めてくれれば、Dに対する暴行を中止していた旨のAの供述は信用し難いというべきである。

なお、被告人は、当公判廷において、本件せっかんの直前、AがCに誰が散らかしたのかと聞いたときに、子供なんだから散らかすの当たり前でしょうとか、Cがやったんじゃないのなどと言っていれば、その場が収まったと思う旨供述している。しかし、右供述は、当時の状況を振り返ってみれば、そのような方法で本件せっかんを止められたかもしれないという、被告人の供述当時における推測を述べているに過ぎないものである。そして、被告人は、当公判廷において、右供述をした後に、言葉によるせっかんの制止について、もしかしたらAが被告人の言うことを聞いてくれたかもしれない旨、Aが被告人の制止を聞き入れた可能性について後退した供述をしていることからすると、本件せっかんの直前、言葉で制止すれば、その場が収まったと思う旨の前記供述は、確定的に制止できたかのような表現ではあるけれども、制止できた可能性も否定できないという趣旨のものと理解するのが相当である。また、前記三、3、(一)、(5)のとおり、被告人は、かなり強い自責の念に駆られて身代わり犯人になっている上、検察官調書(乙18)において、「今でも、私自身に責任があるという気持ちに変わりはなく、できれば自分もDが死んだ件について処罰され罪の償いをしたいと思っています。」などと供述し、本件傷害致死がAの犯行であるとの真相を告白してから約六か月(右検察官調書は、平成一〇年六月一四日に作成されたものである。)が経過した時点でも、なお強い自責の念を表明していることからすると、被告人が、強い自責の念に駆られて、後から振り返ってみれば、本件せっかんの直前、言葉で制止していれば、その場が収まったのではないかと考え、前記のような供述をしたことも十分考えられるところである。そうすると、本件せっかんの直前、言葉で制止すれば、その場が収まったと思う旨の被告人の前記供述から、直ちに、その供述どおり、被告人が言葉で制止すれば、本件せっかんを阻止できたと認定することには疑問が残るというべきである。かえって、Aが、被告人と同棲を開始した当初、被告人の反抗的な態度に激昂して、以後、被告人が刃向かうことができなくなるほどの激しい暴行を加えていることや、本件せっかん時も、濡れ衣を着せられたD(関係証拠によれば、おもちゃを散らかしたのは、DではなくCであったことが認められる。)の反抗的態度に腹立ちを募らせ、しかも、途中でDがおもちゃを散らかしたのは勘違いだったと気付いていながら、Dに激しい暴行を加えていることからすれば、Aは、他人の弁解に耳を傾けることがなく、自己に反抗する者に対して容赦のない態度をとりがちな人物と認められる。加えて、甲野マンションに居住していた当時のAが、自らのうっぷん晴らしのために、CやDに対して、激しいせっかんを加えていた上、CやDに対して一〇回注意したうちの八回はせっかんに及んでいたことを併せ考えると、被告人がAに対して誤解を解くなどの発言をしていたとしても、Aの暴行を阻止できなかった可能性が高いというべきである。

このように検察官の主張する右二つの行為は、いずれもそれ自体ではAの暴行をほぼ確実に阻止し得たとはいえないものであり、結果阻止との因果性の認められないものであるから、右二つの行為を被告人に具体的に要求される作為の内容として想定することは相当でないというべきである。検察官の右主張は採用できない。

3  被告人がAの暴行をほぼ確実に阻止し得たか及びその容易性について

被告人が身を挺して制止すれば、Aの暴行をほぼ確実に阻止し得たはずであるから、被告人がAの暴力を実力をもって阻止することは、不可能ではなかったというべきである。

しかし、Aは、激昂すると、前妻のE子や被告人に対して見境のない暴行を加えていたこと、被告人がAのせっかん行為を見ていただけで、被告人に「何見てるのよ」と文句を言ったことがあったこと、甲野マンションに入居して以降、不満やいらだちを募らせ、そのうっぷん晴らしのため、CやDに毎日のように激しいせっかんを繰り返していたこと、被告人は、本件せっかん当時、妊娠約六か月であり、Aも被告人が妊娠中であることを認識していたこと、Aと被告人には男女の体格差及び体力差があったことにかんがみると、被告人がAの暴行を実力により阻止しようとした場合には、かえって、Aの反感を買い、被告人がAから激しい暴行を受けて負傷していた相当の可能性のあったことを否定し難く、場合によっては胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もあるというべきである。

なお、Aは、当公判廷において、被告人が妊娠中のときは、胎児への影響を慮って、腹部以外の部位に暴行を加えていた旨供述している。しかし、これは、被告人が全く無抵抗でAから暴行を加えられるままになっている場合についての供述であり、Aの従前の行動傾向からすると、被告人が実力で抵抗した場合にも、Aが冷静に被告人の腹部を避けて暴行を加えたか疑問である。のみならず、被告人が実力で抵抗した場合、Aと被告人との位置関係が入り乱れて、被告人の腹部に誤って暴行の加えられる可能性も否定し難い。Aが右のような供述をしているからといって、胎児の健康に影響の及んだ可能性がないとはいえない。また、被告人が声を掛けるなどして止めてくれれば、Dに対する暴行を中止していた旨のAの供述が信用し難いことは、前記2、(二)のとおりである。

また、被告人は、昭和北や星が浦のアパートに居住していた当時から、Aに強度のものも含めて幾度も暴行を加えられており、甲野マンションに入居する以前から、既にAの暴力に恐怖心を抱き、Aの暴力に全く抵抗できない状態になっていた上、さらに、甲野マンションでAから二回強度の暴行を受けた後は、Aの暴力に怯え、Aの機嫌を損ねることができない状態になっていたことからすると、被告人としては、本件せっかん当時、Aの暴行を実力により阻止することが極めて困難な心理状態にあったというべきである。

そうすると、被告人がAの暴行を実力により阻止することは、不可能ではなかったものの、被告人がAから激しい暴行を受けて負傷していた相当の可能性のあったことを否定し難く、場合によっては胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もあった上、被告人としては、Aの暴行を実力により阻止することが極めて困難な心理状態にあったのであるから、被告人がAの暴行を実力により阻止することは著しく困難な状況にあったというべきである。

4  被告人の不作為を作為による傷害致死幇助罪と同視し得るかについて

被告人は、AのDへの暴行を阻止すべき作為義務を有しており、その作為義務を尽くすことは、不可能ではなかった。しかし、被告人が、AのDへの暴行を実力により阻止しようとした場合には、負傷していた相当の可能性があったほか、胎児の健康にまで影響の及んだ可能性もあった上、被告人としては実力による阻止が極めて困難な心理状態にあり、被告人がAの暴行を阻止することが著しく困難な状況にあったことにかんがみると、被告人に要求される作為義務の程度が一定程度強度のものであるアとを考慮しても、なお、被告人の不作為を、作為による傷害致死幇助罪と同視することはできないというべきである。

五  以上によれば、被告人の不作為が傷害致死幇助罪に該当するとの証明がなく、結局、本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰着するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対して無罪を言い渡すこととする。

(裁判長裁判官 田村 真 裁判官 伊東 顕 裁判官 島崎邦彦)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例